黒田官兵衛ゆかりの地「姫路」

黒田官兵衛ゆかりの地「姫路」

戦国時代後期の武将と言われる黒田官兵衛は、天文15年(1546)に御着城主・小寺政職の家老黒田職隆の嫡男として姫路城で生まれた。
播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・小寺氏の家老として姫路城代職を務めた。
織田信長の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)により、1575年ごろから始まった播磨攻略では、前線基地として居城である姫路城を提供するなど織田・豊臣政権に協力。
秀吉の中国攻め、四国・九州征伐などを補佐した。関ケ原合戦では徳川方につき、後筑前52万3千石の藩主と成る。その礎を築いたのが姫路に他ならず、まさに姫路から天下に翔いたといえる。

灘菊酒造のある場所は官兵衛の筆頭家老として大活躍した栗山善助(後の栗山備前守利安)の生誕地といわれている。

黒田官兵衛と姫路
黒田官兵衛と姫路
黒田官兵衛と姫路

※灘菊のロンドンバスに黒田二十四騎の肖像画を展示

灘菊酒造
 
灘菊酒造
※写真はイメージです。
「中国大返し」スタミナの素を味わう大返しめしコース
 

黒田官兵衛が成功させたと言われる「秀吉中国大返し」。戦国時代の奇跡の大作戦は、一万八千余の大軍が昼夜問わず川を渡り、山を駆け、備中高松城から姫路城まで引き揚げた。そして、ありったけの振舞いで士気を調え、天下取りをめざし山崎の合戦へ向けて軍を進め、明智光秀を討った。
この「鉄人達」のスタミナの素を「大返しめし」と銘づけて酒蔵に蘇らせました。「食の鉄人」の皆様に味わっていただきます。

灘菊・大返しめしについての詳しい情報はこちらから

ゆかりの地

黒田官兵衛ゆかりの地「姫路」を巡る


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黒田官兵衛ゆかりの地「姫路」のマップ
廣峯神社
 
廣峯神社
 

姫路市街の北に位置する広峰山に鎮座する廣峯神社。備前から播磨に流れ着いた官兵衛の祖父・重隆が、「御師」と呼ばれる神社の神符を全国に売り歩いていた布教者たちに黒田家秘伝の目薬を一緒に売ってもらうことで財を成し、後の黒田家の礎を築いたという深いゆかりがある。

間の宿(御着城跡)
 
間の宿(御着城跡)
 

若き官兵衛が仕えた、西播磨最大の領主小寺氏の本城跡が残る西国街道「間(あい)の宿」。JR御着駅の東に、道路に沿って古い町並みが残る一角がある。江戸時代に姫路と加古川の「間の宿」として栄えた御着(ごちゃく)で、2009年にNHKのBS放送「街道てくてく旅」でも取り上げられたが、この町もまた黒田家と官兵衛ゆかりの地である。

黒田家廟所
 
黒田家廟所
 

姫路市街の北に位置する広峰山に鎮座する廣峯神社。備前から播磨に流れ着いた官兵衛の祖父・重隆が、「御師」と呼ばれる神社の神符を全国に売り歩いていた布教者たちに黒田家秘伝の目薬を一緒に売ってもらうことで財を成し、後の黒田家の礎を築いたという深いゆかりがある。

国府城跡
 
国府城跡
 

山陽電鉄妻鹿駅の北、二級河川である市川東岸に姿を見せる標高98メートルの甲山で、山上に天正元年(1573)に官兵衛の父黒田職隆が築いた国府山(こうやま)城の跡が残っている。国府山城は功山城、妻鹿城とも呼ばれるが、天正8年に三木城を陥落させた羽柴秀吉に対し、「姫路こそ中国の毛利攻めの根拠地にふさわしい」と自らの居城・姫路城を譲り渡した官兵衛が家族や家臣とともに移り住んだ城でもある。

英賀
 
英賀
 

官兵衛の合戦の地、中世の城下町&寺内町「英賀」。御着城主の小寺政職が織田信長に付いたことを知った毛利輝元は姫路城を攻めようと英賀に上陸した。この時、官兵衛の軍勢が見事にはねかえした。当時の城や町の遺構は城下が火の海となったため残っておらず、英賀神社とその裏手に残る城の土塁の跡、城主の墓所がある英賀薬師、英賀城本丸跡の碑、随所に建つ城門跡の碑、英賀の港跡の碑、明蓮寺境内の英賀本徳寺跡の碑などがわずかに往時の歴史を偲ばせている。

姫路城
 
姫路城
 

秀吉が信長の命を受けて中国攻めのため播州入りした際に自分の居城である姫路城を城ごとすべてを秀吉に差し出して秀吉を驚嘆させ、以来中国攻めでは姫路城がその拠点となり、官兵衛は秀吉の軍師として活躍した。毛利方の備中高松城攻略の最中、本能寺の変を聞いた秀吉は翌日毛利方と和睦し中国大返しで明智軍攻略に向かうが、この戦略は官兵衛が練ったと云われる。

書写山円教寺
 
書写山円教寺
 

966年に性空上人によって開かれ「西の比叡山」と称される。当時の姫路城は、もちろん現在の威容を誇る姿ではなく、また城というよりは砦に近い。秀吉の手勢では三木城包囲と毛利軍来襲には兵力が足りず、織田信長に援軍を要請するが援軍が来た場合、姫路城では収容することができない。そこで官兵衛が、苦境に陥った秀吉に播磨での拠点を姫路城から書写山・円教寺に移すよう勧めたとされている。

灘菊酒造
 
灘菊酒造
※写真はイメージです。
「中国大返し」スタミナの素を味わう大返しめしコース
 

黒田官兵衛が成功させたと言われる「秀吉中国大返し」。戦国時代の奇跡の大作戦は、一万八千余の大軍が昼夜問わず川を渡り、山を駆け、備中高松城から姫路城まで引き揚げた。そして、ありったけの振舞いで士気を調え、天下取りをめざし山崎の合戦へ向けて軍を進め、明智光秀を討った。
この「鉄人達」のスタミナの素を「大返しめし」と銘づけて酒蔵に蘇らせました。「食の鉄人」の皆様に味わっていただきます。

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姫路・播磨出身者が大半! 勇名を馳せた 黒田二十四騎

黒田二四

「黒田二十四騎」とは、官兵衛が黒田家創期の精鋭24人を選んだものと伝えられ、
江戸中期以降、その画像が数多く描かれました。黒田二十四騎の大半は官兵衛が姫路時代の子飼いの家臣であり、
黒田家と姫路・播磨とのゆかりの深さが偲ばれます。

黒田兵庫助

黒田兵庫助
(くろだひょうごのすけ)

官兵衛の同母弟。姫路生まれ。官兵衛とともに秀吉に仕えて各地を転戦。若くして中津城主となった甥の長政を後見し、家中の多くに慕われた。

黒田修理亮

黒田修理亮
(くろだしゅりのすけ)

官兵衛の異母弟。姫路生まれ。秀吉と弟の秀長に仕え、関ヶ原の役では九州各地を転戦。官兵衛没後、菩提を弔うために画像を崇福寺に納めた。

黒田図書助

黒田図書助
(くろだずしょのすけ)

官兵衛の異母弟。姫路生まれ。キリシタンだった官兵衛の影響もあって入信。洗礼名はミゲル。熱心な信者で、秀吉の禁教令後も信仰を貫いた。

栗山四郎右衛門

栗山四郎右衛門
(くりやましろうえもん)

姫路市栗山町の生まれ。有岡城に幽閉中の官兵衛を救出。官兵衛臨終の場で愛用の鎧兜を与えられ、長政の補佐役を託された。

久野四兵衛

久野四兵衛
(くのしへえ)

播磨国に生まれ、父の代から黒田家に仕え、官兵衛の小姓となった。秀吉の九州平定後、戦乱で荒廃した博多の復興を成しとげた。

井上九郎右衛門

井上九郎右衛門
(いのうえくろうえもん)

姫路市白浜町松原の生まれ。黒田職隆に仕え、後に官兵衛に召抱えられた。知略を重んじる戦術家で、その才を官兵衛や長政に見込まれた。

母里太兵衛

母里太兵衛
(もりたへえ)

姫路市飾磨区妻鹿の出身。大杯の酒を飲み干し、福島正則の秘蔵の槍をせしめた話が、民謡「黒田節」として今に歌い継がれている。

後藤又兵衛

後藤又兵衛
(ごとうまたべえ)

姫路市山田町に生まれ、官兵衛に養育される。多くの戦功をあげたが、長政の不信を買って黒田家を去り、大坂城に入って夏の陣で戦死する。

黒田三左衛門

黒田三左衛門
(くろださんざえもん)

有岡城幽閉中の官兵衛を庇護した看守の次男で、恩に報いるために官兵衛が養子に迎えた。芸術家的側面もあり、黒田長政騎馬図を製作した。

野村太郎兵衛

野村太郎兵衛
(のむらたろべえ)

母里太兵衛の弟で姫路に生まれ、妻の姓を継いだ。幼時から黒田家に仕え、九州の陣で活躍し、宇都宮鎮房(しずふさ)の討伐でも功をあげた。

桐山孫兵衛

桐山孫兵衛
(きりやままごべえ)

近江国の生まれで、播磨国に移り住んで職隆以下三代に仕えた。官兵衛に従って青山の合戦で初陣。朝鮮の役では長政に従い、高名をあげた。

吉田六郎太夫

吉田六郎太夫
(よしだろくろうだゆう)

姫路市八代の生まれ。二間半の槍を持ち歩き、多くの戦功をあげた。備中高松城の水攻めでは、船の底に穴を開けて沈め、川をせき止めた。

小河伝右衛門

小河伝右衛門
(おごうでんえもん)

播磨国美嚢郡の生まれと伝えられる。官兵衛に従い九州の陣で高名をあげる。朝鮮の役の働きでは小西行長から「日本一の勇士」と賞賛された。

菅六之助

菅六之助
(かんろくのすけ)

美作国の名族の出身で、たつの市新宮町で生まれた。幼時から黒田家に仕え、関ヶ原の役では小早川秀秋の寝返りを画策する使者となった。

三宅山太夫

三宅山太夫
(みやけさんだゆう)

姫路市飾磨区三宅の生まれ。官兵衛が孫子の一節「不動如山」(うごかざることやまのごとし)から山太夫と名乗らせ、後に黒田水軍を任された。

野口左助

野口左助
(のぐちさすけ)

加古川市野口町生まれ。父は教信寺の僧で母里太兵衛は義兄にあたる。佐用城や三木城攻めで名をあげ、九州の陣、朝鮮の役でも活躍した。

竹森新右衛門

竹森新右衛門
(たけもりしんえもん)

姫路市上大野の生まれ。佐用城攻めで城主兄弟を討ち取る働きをするが、別府城の戦いで左手を負傷し、気遣った官兵衛が旗奉行に任じた。

益田与助

益田与助
(ますだよすけ)

加古川市東神吉町の貧しい農家の生まれ。官兵衛に下僕の身分から取り立てられ、足軽大将にまでなったが、終生、律儀な正直者だった。

林太郎右衛門

林太郎右衛門
(はやしたろうえもん)

信濃国の生まれで播磨国に移り住んで官兵衛に仕えた。槍の達人で、朝鮮の役で虎を突き殺し、講談「加藤清正の虎狩」のモデルになった。

原弥左衛門

原弥左衛門
(はらやざえもん)

本姓は原田氏で、筑前国の名族宝殊山(ほうしゅやま)氏の支流。九州の陣から官兵衛に仕えたが、九州の地理に明るく黒田軍を大いに救った。

堀平右衛門

堀平右衛門
(ほりへいえもん)

播磨国の生まれ。長政の家臣の従卒から朝鮮出兵時に異例の抜擢で直参となった。朝鮮の役では晋州(ちんじゅ)城の一番乗りを果たした。

衣笠久右衛門

衣笠久右衛門
(きぬがさきゅうえもん)

播磨国明石郡の生まれ。小寺家から黒田家家臣となり、官兵衛が小寺政職の遺児を呼び寄せる際には使者を務めた。朝鮮の役でも奮戦した。

毛屋主水

毛屋主水
(けやもんど)

近江国の生まれ。幾多の変遷を経て佐々成政(さっさなりまさ)の足軽大将となり、後に長政に仕えた。気象状況や敵情の視察に優れていた。

村田兵助

村田兵助
(むらたへいすけ)

姫路市井ノ口の生まれで、広峯神社の神主・井口太夫の甥。幼時から官兵衛に仕え、長政が人質として秀吉に預けられたときも供をした。